ヒヤリ・ハットという言葉を、皆さんは聞いたことがあるでしょうか。
これは、医療や介護の現場で起こるヒヤリとする出来事のことを指し、定義としては『職務上発生したエラーだが、損失や損害は発生しておらず、結果的に事故や災害へ至っていないケース』となっています。
具体的に交通事故に例えると、『コンビ二の駐車場内でブレーキとアクセルを間違えて踏んだが、ギアがパーキングに入っていたため、店に突っ込まずに済んだ』ケースや、『凍った路面上で急ブレーキを踏んだところ車がスリップしたが、他人の車にぶつかる少し手前で停止できた』といったような体験がヒヤリ・ハットです。一歩間違うと事故や大惨事を招いていたところですが、様々な要因が重なり、そういったトラブルを回避しています。
これは言い換えると、そういったトラブルというのは『ブレーキとアクセルを間違える』ことや、『路面でスリップする』といった要因がまず発生することによって起こるものであり、単独的・突発的に発生するものではないということです。
つまり、事故や大惨事を起こさないようにするには、そうした要因となるものをまず知り、その要因を発生させないよう注意しなければならないということ。
『事故を起こさないように注意する』ではなく、『事故の“要因となるもの”を発生させないように注意する』という姿勢が正しく、そうした『何に注意すべきか』の『何』に当たる部分が、ヒヤリ・ハットという解釈になります。
交通事故の場合について見てきましたが、では医療・介護の現場で起こるヒヤリ・ハットとはどのようなものがあるのでしょうか。今回の記事では、そんなヒヤリ・ハットの事例と対策についていくつかご紹介していきます。
目次
ケース1 ポリデントを口に入れて食べようとしていた
【事例】
介護職員のHさんは、利用者Cさんの夕食の食事介助をしていた。
利用者Cさんは認知症があり、箸を使って自力で摂取はできるが、時折手を止めてしまうことがある為介助をする必要があった。
その日、食事介助を終えた後、うがいをするためCさんを居室まで誘導し、義歯洗浄を行った。
就寝するため義歯をポリデントに付けようとしたところ、他利用者のナースコールがあった。
その他利用者は転倒リスクが高い方であったため、すぐに対応しなければと思い、Cさんに「少し待っててね」と声かけした後、ポリデントの袋を洗面所に置いて介助へ向かった。
他利用者の介助を終えた後、Cさんの所へ戻ると、Cさんがポリデントの袋を破って中身を出し、それを口に入れようとしていた。介護職員のHさんはそれを発見し、慌てて制止した。
【対策】
上記事例の場合、ポリデントを『口に入れようとしていた』という点がポイント。Cさんは認知症があり、目の前にあるものが食べても大丈夫なものかどうかの判別ができないレベルであることが分かります。
更に、介護職員のHさんは、このような状況に遭遇するまでCさんの認識能力について気がついていませんでした。
認知症には『異食』というBPSD症状があり、トイレ内の泡石鹸も飲もうとしていたという例も聞かれるため、著しく認知機能が低下している方の目の前には、食べると危険性があるものはなるべく目が届く場所に置かないように注意し、もし置かざるを得ない場合は見守りを強化するようにしましょう。
ケース2 車椅子を押していると利用者が前のめりになり、転落させそうになった
【事例】
介護職員のEさんは、利用者Tさんのトイレ介助を終え、車椅子を押して居室へ誘導している最中だった。
業務が多忙であったため、若干車椅子を押すスピードが速かった。
その時、利用者Tさんが急に前のめりになり、車椅子から転落しそうになったため、Eさんは慌ててTさんを押さえつけ、転落を防いだ。
何故、前のめりになったのかTさんに問うと、「車椅子のフットレストを下げて、その上に両足を載せようと思った」とのこと。
トイレから出た後、車椅子のフットレストは上がったままであり、日頃からTさんは車椅子に乗ると必ず自分で車椅子のフットレストを下げ、それに足を載せることを徹底している人であった。
【対策】
ポイントは、『車椅子を押すスピードが速い』ことと、『Tさんは必ずフットレストに足を載せる人である』こと。
押すスピードが速ければ、Tさんがこのような意想外な行動を取った際対処が遅れる可能性が高いです。
また、車椅子の使い方というのは人それぞれのものがあります。例えばフットレストを上げて足で車椅子を進めようとする方や、どこかに移乗する際ブレーキを掛けない方、自操スピードが速い方や遅い方など、千差万別です。
つまり、誘導する際はその人の車椅子の使い方を覚えておかなければなりません。フットレストに足を載せるのが習慣となっている人であるならば、もしフットレストが上がっていたら、利用者の方は違和感を覚えることでしょう。介護職員は、利用者のそういった癖も熟知しておく必要があります。
ケース3 利用者がベッド柵の脇から足を下ろし、端座位になっていた。
【事例】
介護職員のMさんは利用者Kさんのトイレ誘導を終え、ベッドへの臥床介助を行っていた。Kさんは入居してまだ間もない方だったが、入居前は自宅のベッドから転落し、右大腿部を骨折したという転倒歴のある方であった。
そのため、施設内ではしばらく様子観察のため、ベッド上からの転落を防ぐ意味もあり、臥床後はベッド柵を中央へ設置し直すという対策を徹底していた。
Kさんを臥床させた後、Mさんは別の利用者もトイレ誘導していたことを思い出し、その利用者の様子を見にトイレへ向かった。
一通り業務が終わり、Mさんは摂取量などの記録をしようとデスクに腰を下ろした時、別の職員がKさんの居室内を覗き込み、慌てている様子を見た。どうしたのかと思い向かってみると、Kさんがベッド柵に掴まりながら端座位の姿勢をとっていた。
しかも、立ち上がろうとしていた為なのかその座りは浅く、職員が気がつかなければベッドから滑り落ちていたかもしれないという状態であった。
Kさんにどうしたのか理由を問うと、「陽射しが眩しく、カーテンを閉めようと思った」とのこと。この時、ベッド柵は真ん中に設置されていなかった。
【対策】
転倒や転落をして怪我をしたという経験のある利用者の場合、施設内での介護はしばらくの間様子観察する必要があるかと思います。
そのための対策として、『臥床後にベッド柵を中央へ設置する』ということを行っていたのですが、この時職員のMさんはそのことをすっかり忘れていました。別な職員がそれを発見するまで、ベッド柵のことには気がつかなかったという場面です。
この場合の対策としては、まず居室内の巡回の徹底。業務を終えてしまった後の最終確認として、『大丈夫』と思い込むのではなく、一通り居室の様子を巡回して回ります。
別の職員がこの時どうして気がついたのかというと、『通路を通る時はただ通るのではなく、利用者の様子を常に見守りながら通る』という姿勢ができていたためであると思います。職員間でこのような意識を持ち合うことも大切な対策となるかもしれません。
想定される『事故』、及び注目すべき『要因』とは
ヒヤリ・ハットの事例を3つほどご紹介しました。では、この3つの事例について、想定された事故や要因とは、一体何でしょうか。
ケース1の場合は、認知症のBPSDである『異食』が関わったことによって起こった出来事です。
この場合はポリデントでしたが、例えばテーブルに上がっていた他利用者の降圧剤を自分の薬だと思い込んで服用してしまったり、ミキサー食でなければ摂取できない方が隣の利用者の常食を食べていたり等が起こった場合、『誤薬』や『誤嚥』などの事故が想定されます。
『異食』にはこうした事故が発生することも考えられるため、注意すべき要因として『見守りの強化』、『間違えて口に含んでしまっては困るようなものを目の届く範囲に放置しない』というものが考えられます。『誤薬や誤嚥に注意しよう』ではなく、このような要因を発生させないようにすれば、必然的に上記で上げた誤薬や誤嚥などの事故は防げるということです。
ケース2の場合、考えられる事故としては『車椅子からの転落により、打撲や骨折』などがあります。
高齢者の身体は非常に繊細であり、介護をする際は『転倒する=怪我をする』というイメージをまず持っておく必要があります。
このような事故を起こす要因としては、『車椅子の押すスピードが適切か』、『車椅子に座っている利用者の様子観察をしながら押しているか』などの事項が疎かになっている、ということが考えられます。
車椅子の使い方は利用者によって一人ひとり違うので、その方の自操のやり方や姿勢など、常に気に留めておくことが重要です。
ケース3では、『ベッドからの転落』が想定される事故になります。
対策として、『ベッド柵を中央に設置する』ということで、これを忘れていたというのが事故の要因になると考えられます。
そのため、その要因を作らないように見守りの強化をしていくべきであろうという考え方に行き着きます。
ベッド関係ではこれ以外にも、例えば『利用者が柵を外す』、『柵をしていたが、ベッドの隙間から降りようとしていた』、『ベッド柵をまたいで床に足を着こうとしていた』といったヒヤリ・ハット(事故が起こる要因となるもの)もきかれています。さて、皆さんはこのような場合、どのような事故が想定され、それを防ぐためにどのような対策を行う必要があると思うでしょうか。
介護とは人間が行うものなので、このようなヒヤリ・ハットが発生するリスクは非常に高いです。
しかし、ここで間違えて欲しくないのは『ヒヤリ・ハットを起こさないことが重要』ではない、ということ。
確かに、それに越したことはありませんが、もしそうであるならば『起こるかもしれない事故を想定するための材料』が絶対的に不足するということになり、結果的に事故を防ぐことが難しくなってしまいます。
『ヒヤリ・ハットを起こさないことが重要』なのではなく、『どのようなヒヤリ・ハットが発生しているのか』をできるだけ多く知っておく必要があり、その目的とは事故発生の阻止へと結びつきます。
ハインリッヒの法則によると、1つの重大な事故や災害というのは、29回の軽度な事故や災害、及び300回のヒヤリ・ハットを経て発生するのだそうです。
事故を防ぐといっても、その事故の要因となっているものを知らなければ、どう防ぐの?という話になります。そのためにも、日常的に発生しているヒヤリ・ハットには常に関心を持っておく必要があります。